雑記12.2
オンライン上の捌け口作っておいたのをしばらく忘れてた。そのためにあるのだ。
政治的立場はリベラルにすることにした、昨日あたり。よく考えると、小学校あたりからリベラルではあったなと思う。道徳教育論の授業で、どうしても道徳廃止がいいなと思ってしまう。そのあたり、リベラル。
いわゆるリベラリズムにするかもっと行ってリバタリアニズムにするかは検討中。
リベラルになれるならならないと、リベラルは自然になくなってしまうから、なっておこう。
コンサバに反対ー!コンサバといえば、ちょっと違うけど英語のクラスの人がバーバリーブラックラベル(だっけ?)だった。
それはどうでもいいけど、結局人は人を評価したり何かを評価したりして、人は人の評価を気にして、また評価しあうという必要だけど時にめんどくさい行為を繰り返して生きている。これがなんか変だったりしてもあんまり気付かないからなんとかなんないかなーと思いつつ、自分もどちらかに付いている。
リベラルか保守(コンサバ)か、どちらかの選択。中道は決して弁証法みたいな解決にならないという悩みの種。逆にいえば、中庸ほどラディカルな立場もないだろう。
白か黒かしかない状況なので、白か黒かは捨てないといけない。必ず何かを捨てないと。何を捨てるかを考えている。
それをわかって引き受けるから、対話もできる気もするが。要は異文化について関係を持つようなもので、異文化の理解はほぼ不可能で、しかし異文化から影響を必ず受けていて固有性なんてないのに相容れなくなる不思議さ。異文化からできたのに異文化がわからなくなってしまうパラドックスが、人間の文化なような気がする。
そんな人間が今の社会を作ったから大変なんだ。なんかみんな割りと自分勝手で。自分勝手な人が単純にダメかというとそうでもなくて。
そんな中、自分はどうしたらいいかは分からない。でも少しは見えるかも。必要なのはリベラルか(人によって)コンサバ、あと対話でしょうか。肯定と否定について自覚的になることも必要かな。
人生は悩めるな〜、飽きない。
政治的立場はリベラルにすることにした、昨日あたり。よく考えると、小学校あたりからリベラルではあったなと思う。道徳教育論の授業で、どうしても道徳廃止がいいなと思ってしまう。そのあたり、リベラル。
いわゆるリベラリズムにするかもっと行ってリバタリアニズムにするかは検討中。
リベラルになれるならならないと、リベラルは自然になくなってしまうから、なっておこう。
コンサバに反対ー!コンサバといえば、ちょっと違うけど英語のクラスの人がバーバリーブラックラベル(だっけ?)だった。
それはどうでもいいけど、結局人は人を評価したり何かを評価したりして、人は人の評価を気にして、また評価しあうという必要だけど時にめんどくさい行為を繰り返して生きている。これがなんか変だったりしてもあんまり気付かないからなんとかなんないかなーと思いつつ、自分もどちらかに付いている。
リベラルか保守(コンサバ)か、どちらかの選択。中道は決して弁証法みたいな解決にならないという悩みの種。逆にいえば、中庸ほどラディカルな立場もないだろう。
白か黒かしかない状況なので、白か黒かは捨てないといけない。必ず何かを捨てないと。何を捨てるかを考えている。
それをわかって引き受けるから、対話もできる気もするが。要は異文化について関係を持つようなもので、異文化の理解はほぼ不可能で、しかし異文化から影響を必ず受けていて固有性なんてないのに相容れなくなる不思議さ。異文化からできたのに異文化がわからなくなってしまうパラドックスが、人間の文化なような気がする。
そんな人間が今の社会を作ったから大変なんだ。なんかみんな割りと自分勝手で。自分勝手な人が単純にダメかというとそうでもなくて。
そんな中、自分はどうしたらいいかは分からない。でも少しは見えるかも。必要なのはリベラルか(人によって)コンサバ、あと対話でしょうか。肯定と否定について自覚的になることも必要かな。
人生は悩めるな〜、飽きない。
雑記11.26 疲弊する疾走生活
最近の傾向を一言でゆーと「疲弊」でしょうか。
昨日なんか久々にリビングで寝ました。つまりどこでも寝られるほど疲れていたらしい。
これも原因は茨城農業実習なのだが。この茨城農業実習参加メンバーが濃すぎて毒気に当たってから少しおかしくなった気がする。
とにかくよくしゃべるしいろいろ知ってる。特に急に参加した博士課程の人は、私的人間カテゴリーでは「モテオタ」というちょっと珍しい類型だった。モテオタはいろいろ知りすぎて気持ち悪いくらいなんだけど何人からもモテる要素がなぜかある。下手したらキモオタなのに、清潔感がむしろ強調されている感じ。
いくら変でもわりと大丈夫な方向性、むしろ活かせる方向性を見出だした気がする。
最近はゼミの準備である。法律学は判例と学説の変遷を追うという作業をしないといけない。なにも法律学でなくとも先行研究の上に研究しないと意味がない。法律学の場合、判例が出たあとの学説の影響に注意する必要がある。時系列に気を付けて影響関係を捉える。しかも論理的に。ときには論理が錯綜していたりもする。それも把握して法的な構成を捉えないと議論できぬ。
一つの作品や著作がどのように出回ったかについての視点が現代の学問の傾向だろう。文学研究のテキスト論や読者論、ジョン・A・ポーコックによる政治思想史。あるいはメディア論や身体論が出てきたのは、要するにコミュニケーションの間になにか挟まっているという見方で、それは言語のモノ性への気付きが基にあって、不透明な眼みたいな感じ。
まあそんな傾向でなくとも法律学は判例・学説の歴史的繋がりを重視してきた歴史があります。
今日百科事典引いたら「法律学」ってなくてさすがにショックでしたね。法律学は哲学と歴史学の次くらいに古い学問で、他の社会科学が近代以降にできたのに対して、少なくとも今のと同一性のある体系ができたのはずっと早いのです。
しかもなぜか現代の日本では文系最大の権力を持つ学部を保持しています。
だからつまらないなりに社会の一角なわけです。法律学はわりとそうした自らの立場を意識してきた。だから言説の歴史という観点が人文科学を変革させても、ふーんって感じだった。
という法律学を明日は朝から晩までやるつもりだったんで、ずっと楽しみにしてました。やっと時間がとれるんでややストイックに使おうかな、と。
昨日なんか久々にリビングで寝ました。つまりどこでも寝られるほど疲れていたらしい。
これも原因は茨城農業実習なのだが。この茨城農業実習参加メンバーが濃すぎて毒気に当たってから少しおかしくなった気がする。
とにかくよくしゃべるしいろいろ知ってる。特に急に参加した博士課程の人は、私的人間カテゴリーでは「モテオタ」というちょっと珍しい類型だった。モテオタはいろいろ知りすぎて気持ち悪いくらいなんだけど何人からもモテる要素がなぜかある。下手したらキモオタなのに、清潔感がむしろ強調されている感じ。
いくら変でもわりと大丈夫な方向性、むしろ活かせる方向性を見出だした気がする。
最近はゼミの準備である。法律学は判例と学説の変遷を追うという作業をしないといけない。なにも法律学でなくとも先行研究の上に研究しないと意味がない。法律学の場合、判例が出たあとの学説の影響に注意する必要がある。時系列に気を付けて影響関係を捉える。しかも論理的に。ときには論理が錯綜していたりもする。それも把握して法的な構成を捉えないと議論できぬ。
一つの作品や著作がどのように出回ったかについての視点が現代の学問の傾向だろう。文学研究のテキスト論や読者論、ジョン・A・ポーコックによる政治思想史。あるいはメディア論や身体論が出てきたのは、要するにコミュニケーションの間になにか挟まっているという見方で、それは言語のモノ性への気付きが基にあって、不透明な眼みたいな感じ。
まあそんな傾向でなくとも法律学は判例・学説の歴史的繋がりを重視してきた歴史があります。
今日百科事典引いたら「法律学」ってなくてさすがにショックでしたね。法律学は哲学と歴史学の次くらいに古い学問で、他の社会科学が近代以降にできたのに対して、少なくとも今のと同一性のある体系ができたのはずっと早いのです。
しかもなぜか現代の日本では文系最大の権力を持つ学部を保持しています。
だからつまらないなりに社会の一角なわけです。法律学はわりとそうした自らの立場を意識してきた。だから言説の歴史という観点が人文科学を変革させても、ふーんって感じだった。
という法律学を明日は朝から晩までやるつもりだったんで、ずっと楽しみにしてました。やっと時間がとれるんでややストイックに使おうかな、と。
雑記11.22 休講・照葉樹・ブーニン
昨日は三時に寝ましたので、九時前くらいに起きて学校に行くと休講でした。一週間前が休講だと勘違いしていたことに気付きました。そろそろ笑えなくなってきました。
仕方ないので生協で『照葉樹林文化とは何か』を購入し、図書館でそれを読み、地理学的なことを考えました。レポートがあるのです。
ついでにサントリー学芸賞の『アダム・スミス』を買おうとしましたが売れていました。
農業の授業では、農業法人で頑張っている若手の人が来て、農業の可能性についてしゃべっていました。従来の農家にはビジネスのノウハウがないので、そこに可能性が一つあるようです。しかし私は農業について、照葉樹林文化との関係で考える思考になっていたので、一体この人が語るビジネスの価値観はどこから来ているのだろうと思いました。農業にはまだ浸透していない合理性を規範とする資本主義の精神の起源。プロテスタンティズム、かもしれませんが、照葉樹林文化地帯の日本にそれが入ってくるとはどういうことなのでしょうか。
やはり『アダム・スミス』を読んでみようと思います。
そのあと学生読書室で囲嶢地通行権を調べましたが、よくわかりませんでした。民法210条以下の制度的には相隣関係の規定ですが、それと課題文を合わせて考えてみて有効な視点が見いだせない。
そのあとTSUTAYAに行って、それからブーニンを聴きにいきました。ブーニンというピアニストはやっぱり大変なピアニストで、ピアノの音がキラキラしていて、一つずつ固体になったのをみんなに配りたいような感じです。ドビュッシーも弾いたのですが、ドビュッシーなのにお腹いっぱいになりました。ドビュッシーなのに!
仕方ないので生協で『照葉樹林文化とは何か』を購入し、図書館でそれを読み、地理学的なことを考えました。レポートがあるのです。
ついでにサントリー学芸賞の『アダム・スミス』を買おうとしましたが売れていました。
農業の授業では、農業法人で頑張っている若手の人が来て、農業の可能性についてしゃべっていました。従来の農家にはビジネスのノウハウがないので、そこに可能性が一つあるようです。しかし私は農業について、照葉樹林文化との関係で考える思考になっていたので、一体この人が語るビジネスの価値観はどこから来ているのだろうと思いました。農業にはまだ浸透していない合理性を規範とする資本主義の精神の起源。プロテスタンティズム、かもしれませんが、照葉樹林文化地帯の日本にそれが入ってくるとはどういうことなのでしょうか。
やはり『アダム・スミス』を読んでみようと思います。
そのあと学生読書室で囲嶢地通行権を調べましたが、よくわかりませんでした。民法210条以下の制度的には相隣関係の規定ですが、それと課題文を合わせて考えてみて有効な視点が見いだせない。
そのあとTSUTAYAに行って、それからブーニンを聴きにいきました。ブーニンというピアニストはやっぱり大変なピアニストで、ピアノの音がキラキラしていて、一つずつ固体になったのをみんなに配りたいような感じです。ドビュッシーも弾いたのですが、ドビュッシーなのにお腹いっぱいになりました。ドビュッシーなのに!
雑記11.20 歌舞伎・乱歩・ポプラ社
家の中に新品の本が多くていやになるので、付箋とか書き込みとかべたべたしてぇなぁと思う。
※
先のことを考えると、ほんと泣きたくなる、というセンテンスを一度も口にしてないのにもう全員に話したような気がしてしまう。
※
歌舞伎を観たらなんて面白いんだろう!毎日観たいくらいだ!やっぱり今面白いのは歌舞伎だからねぇ。最高裁より大きい国立劇場が埋まるという歌舞伎の力を感じる。
※
あと乱歩についても考えないといけない。今日歌舞伎は乱歩原作だったから、かつて読んだ見世物小屋から始まる怪人二十面相モノを思い出した。かつてというのは小学生のときで、図書室にあったポプラ社の怪人二十面相シリーズをずっと読んでいた。図書室の人気のない位置にずらっと並べられ、背表紙には例のマスクが描かれているために、なかなか手に取る人はいなかった。しかしなぜだか私は一冊引き出して読み出したのだった。最初の一冊は『悪魔人形』だった。貸し出し期間の一週間でちょうど読み終えた。その巻は確か二十面相が微妙にしか出てこない巻だった。それからランダムにシリーズを読み始めた。『鉄塔王国』では二十面相はカブトムシになるなど無理があるところに愛すべき部分がありながら、当時の社会を映したような妖しさはめっとりとある。それをよく小学生で読んだなあと思うが、やっぱり面白かったんだろう。
しかしその後二十面相の出てこない黄金仮面以降の大人向けの作品の方が子供騙しなトリックがない分面白いことに気付き、そちらがメインになる。
エレベータに引っ掛けて殺す『三角館の恐怖』や、『地獄の道化師』『死の十字路』などが特に面白かった記憶がある。懐かしい。
そして私が読んでいるのをみて一人の友人が読み始め、他の人も読み始めてちょっとしたブームになったことがある。私の周辺グループは一時期みんなそのシリーズを読んでいて、二十面相についてしゃべったりした。変な集団だった。確か小3か小4のことである。
※
先のことを考えると、ほんと泣きたくなる、というセンテンスを一度も口にしてないのにもう全員に話したような気がしてしまう。
※
歌舞伎を観たらなんて面白いんだろう!毎日観たいくらいだ!やっぱり今面白いのは歌舞伎だからねぇ。最高裁より大きい国立劇場が埋まるという歌舞伎の力を感じる。
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あと乱歩についても考えないといけない。今日歌舞伎は乱歩原作だったから、かつて読んだ見世物小屋から始まる怪人二十面相モノを思い出した。かつてというのは小学生のときで、図書室にあったポプラ社の怪人二十面相シリーズをずっと読んでいた。図書室の人気のない位置にずらっと並べられ、背表紙には例のマスクが描かれているために、なかなか手に取る人はいなかった。しかしなぜだか私は一冊引き出して読み出したのだった。最初の一冊は『悪魔人形』だった。貸し出し期間の一週間でちょうど読み終えた。その巻は確か二十面相が微妙にしか出てこない巻だった。それからランダムにシリーズを読み始めた。『鉄塔王国』では二十面相はカブトムシになるなど無理があるところに愛すべき部分がありながら、当時の社会を映したような妖しさはめっとりとある。それをよく小学生で読んだなあと思うが、やっぱり面白かったんだろう。
しかしその後二十面相の出てこない黄金仮面以降の大人向けの作品の方が子供騙しなトリックがない分面白いことに気付き、そちらがメインになる。
エレベータに引っ掛けて殺す『三角館の恐怖』や、『地獄の道化師』『死の十字路』などが特に面白かった記憶がある。懐かしい。
そして私が読んでいるのをみて一人の友人が読み始め、他の人も読み始めてちょっとしたブームになったことがある。私の周辺グループは一時期みんなそのシリーズを読んでいて、二十面相についてしゃべったりした。変な集団だった。確か小3か小4のことである。
雑記11.19 劣化するオタク文学部
この記事から雑記カテゴリーに変更。
今日は生協のフェアで2割引をやっていたので、内田民法2冊と前田刑法2冊を買ってしまった。壱万円しました。
そんなきっかけで結果無価値から刑法を勉強することになった。まあ考え型としては結果無価値の方が好きだからいいかなと思う。面白いけど棘道。結果無価値は、法が倫理に入って来るのを拒んでいるところがとてもいいと思う。学問に大事なのは限界や棲み分けを考えること。役割を考えること。
※
その点で大変心配なのが文学部である。文学部は劣化すると思う。このことはつまり、文学部のオタク化である。
文学部の院に行ってそのまま研究者になっていく人の最近の傾向は、要はオタクである。オタクで何がダメかというと、趣味と研究が分けられないからだ。九十年代に登場しはじめたオタク教員は、幅広い関心を持ち、そのために研究対象は大きく広がった点はよかった。しかしこれ以降、オタク教員はむしろ文学部を深刻に劣化させる。学術的意識の薄弱なオタク教員は、意義ではなく興味により対象を選び、分析ではなく感想を書いてしまう。この事態はすでに大学で起こっている。文学部の人はオタク教員が浮かぶのでは?
これはニューアカにより従来の教養主義型の文学研究が崩壊し、理論やら分析やらが華やかに展開したことが元にある。作品より理論を求め、結果、研究対象は既存の評価に影響されなくなったため、文化全般を観るようになった。これはむしろアカデミズムの傾向というより、現実の傾向だった。
「解釈と鑑賞」から離れてアカデミックな形を取るためには理論が必要だ。ところが理論は、主に欧米からの輸入なのだが、輸入の際に緊張感がなくなってしまう。今隆盛のカルチュラル・スタディーズを例にあげる。
CSはイギリスの文化批評にフランス現代思想の理論が加わって発展した。その目的は、イデオロギーの解明であった。イギリスではサブカルチャーとしては移民によるカウンターカルチャーが重要であり、それに呼応する形で既成の学問へのカウンターとしてCSが展開した。アルチュセール、グラムシのイデオロギー論を軸に、黒人文化を書き替えたりした。
ところがCSが日本に来ると、サブカルチャーとして専らオタク的文化の関心にすり替わってしまった。オタク的文化はサブかもしれないが、異文化ではない。〈他者〉ではなく趣味なので、反抗はあまりない。むしろ満足している。今に満足して満足のために感想と変わらない〈分析〉をちょろっとやる。この傾向はオタク教員の増加により進展してしまうだろう。
問題は「政治」の視点が欠けていること。あまり社会には関心がないらしい。小説の在り方については夢想するのに社会の中で小説を考えられない。骨抜きの理論を語彙にして趣味の報告をアカデミックに取り繕って書く偽学術論文が量産される。
旧来の学問に沿う必要はなく、また沿わないほうがより意義があると思うが、学問の在り方に自覚的になるべきだ。それがCSであり、言語の問題から自己言及性に着目した脱構築とその必然的な延長のポストコロニアリズムである。
やるべきは「差異の政治学」であるところ、多くのオタク教員は政治なぞ無関係に趣味を極める。それは研究でなくて消費だ。創り手になれないだけ。
長々としているのはそれだけ憂慮しているから。文学部はオタク化し、学問の水準は劣化する。それを逃れるために、社会・政治に取り組むべきだ。
今日は生協のフェアで2割引をやっていたので、内田民法2冊と前田刑法2冊を買ってしまった。壱万円しました。
そんなきっかけで結果無価値から刑法を勉強することになった。まあ考え型としては結果無価値の方が好きだからいいかなと思う。面白いけど棘道。結果無価値は、法が倫理に入って来るのを拒んでいるところがとてもいいと思う。学問に大事なのは限界や棲み分けを考えること。役割を考えること。
※
その点で大変心配なのが文学部である。文学部は劣化すると思う。このことはつまり、文学部のオタク化である。
文学部の院に行ってそのまま研究者になっていく人の最近の傾向は、要はオタクである。オタクで何がダメかというと、趣味と研究が分けられないからだ。九十年代に登場しはじめたオタク教員は、幅広い関心を持ち、そのために研究対象は大きく広がった点はよかった。しかしこれ以降、オタク教員はむしろ文学部を深刻に劣化させる。学術的意識の薄弱なオタク教員は、意義ではなく興味により対象を選び、分析ではなく感想を書いてしまう。この事態はすでに大学で起こっている。文学部の人はオタク教員が浮かぶのでは?
これはニューアカにより従来の教養主義型の文学研究が崩壊し、理論やら分析やらが華やかに展開したことが元にある。作品より理論を求め、結果、研究対象は既存の評価に影響されなくなったため、文化全般を観るようになった。これはむしろアカデミズムの傾向というより、現実の傾向だった。
「解釈と鑑賞」から離れてアカデミックな形を取るためには理論が必要だ。ところが理論は、主に欧米からの輸入なのだが、輸入の際に緊張感がなくなってしまう。今隆盛のカルチュラル・スタディーズを例にあげる。
CSはイギリスの文化批評にフランス現代思想の理論が加わって発展した。その目的は、イデオロギーの解明であった。イギリスではサブカルチャーとしては移民によるカウンターカルチャーが重要であり、それに呼応する形で既成の学問へのカウンターとしてCSが展開した。アルチュセール、グラムシのイデオロギー論を軸に、黒人文化を書き替えたりした。
ところがCSが日本に来ると、サブカルチャーとして専らオタク的文化の関心にすり替わってしまった。オタク的文化はサブかもしれないが、異文化ではない。〈他者〉ではなく趣味なので、反抗はあまりない。むしろ満足している。今に満足して満足のために感想と変わらない〈分析〉をちょろっとやる。この傾向はオタク教員の増加により進展してしまうだろう。
問題は「政治」の視点が欠けていること。あまり社会には関心がないらしい。小説の在り方については夢想するのに社会の中で小説を考えられない。骨抜きの理論を語彙にして趣味の報告をアカデミックに取り繕って書く偽学術論文が量産される。
旧来の学問に沿う必要はなく、また沿わないほうがより意義があると思うが、学問の在り方に自覚的になるべきだ。それがCSであり、言語の問題から自己言及性に着目した脱構築とその必然的な延長のポストコロニアリズムである。
やるべきは「差異の政治学」であるところ、多くのオタク教員は政治なぞ無関係に趣味を極める。それは研究でなくて消費だ。創り手になれないだけ。
長々としているのはそれだけ憂慮しているから。文学部はオタク化し、学問の水準は劣化する。それを逃れるために、社会・政治に取り組むべきだ。


